2日目はハレで過ごしたのだけど、そこには泊まらず、夕方にライプチヒへ。ハレからライプチヒまでは鉄道で30分ちょい。
2年半ぶりのライプチヒ。前回は、たった4時間しか滞在しなかった上に雨混じりで寒かったのです。今回は快晴!心なしかバッハさんも誇らしげ。つやっつや✨✨
これは前日、ライプチヒに到着した直後に撮ったもの。夕暮れ時で明かりが灯り始めたころです。向かって左は、翌日に行く予定の現代史フォーラム。
…ということで、2年半ぶりに再訪した現代史フォーラム。
前回は駆け足だったので、もう少しじっくり見たかったのです。
これは戦後、東方からドイツへ引き上げてきた人々の展示。
こんな手押し車に家財道具を載せ、命からがら引き上げてきたんですね…。
東から西へ逃げる人々の数。東ベルリン暴動(1953年6月17日)が起こる直前がいちばん多いみたい。5万人に達する勢いの月もある…。当局が神経をとがらせたのも分かる気がします。その後も流出は止まらず、とうとう1961年にベルリンの壁が…
個人的にこれがすっごく面白いと思ってしまいました。
年代は書かれていないのですが、東ドイツ時代のベルリンのS-Bahn(都市高速鉄道)網。
壁ができたことで線路が寸断。
無人駅となった駅もあったみたいです。
古い路線図や、新しい路線図と比べると面白い…。これ(↓)はぬゎんと第一次大戦前、1912年当時の S-Bahn 網。さすが鉄道の国だけあって、進んでいたんですね。
これ(↓)は、ナチが政権についた1933年当時のS-Bahn 網。
壁によって線が分断されるはるか前。
余談ですが、Griebnitzsee 駅は Neubabelsberg という名前でした。
この路線図だと、左下。ポツダムの2つ手前の駅です。
これ(↓)は、戦争中(1944年)のS-Bahn 網。プロパガンダ映画を撮り続けた国営の映画会社ufa のスタジオがあったことから、Neubabelsberg駅は「Babelsberg Ufastadt」という名前だった…!
当局に睨まれるなどして、西に亡命した映画関係者。アンゲリカ・ドムレーゼやマンフレート・クルーク、アルミン・ミュラー=シュタールなどの顔が…。
出た!運搬車に偽装して囚人などを運ぶバルカス。
ライプチヒは1989年の民主化デモが非常に激しかった場所。
ライプチヒで1泊したあと、夕方の列車で一路ニュルンベルクへ…