キネマ旬報1952年6月下旬号
2012年 11月 26日
…と、ワタシの洗濯機の話をしている場合ではないですね。先日、ネットの古書店で思わずポチってしまった古雑誌。ドイツに関する記事があるとのことで、読みたくなってしまったのでした。先日も少しだけ引用いたしましたが、コレ ↓ です。
1952年という時代、ドイツ映画界ってどんなだったのかな~なんて想像しながら読んでおりました。終戦から7年、そして東西ドイツの建国から3年が経ち、映画界も少しずつ落ち着きを取り戻してきた頃なんでしょうか。この記事の筆者によるとドイツ語の文献が手に入らないらしく、他国の映画雑誌の記事から分析している模様。(「あくまでもノウトと思ってくれ」と筆者は書いていますが、どうしてどうして。か~な~り詳しく書かれています。Note 以上だと思うな~)ドイツ映画界の様子がどう日本に伝わっていたのかが垣間見られて楽しい。以下、一部だけ引用させていただきますね:
『ドイツが戰後製作を開始したのは、1946年であるが、1951年末までに287本の劇映画を製作した(「チネマ」1951年12月15日号所載クルト・J・フィッシャの記事による)。これを内譯すれば、東ドイツのDEFAが49本、西ドイツが238本となり、西ドイツが圧倒的におおい。東ドイツは、ソヴェト流にデファが獨占で製作をおこなっているが、西ドイツでは、群小製作會社が山ほどある。』
『東ドイツの映画は、比較的粒がそろっているが、政治的傾向が濃厚すぎ、西ドイツの作品には、いわゆる「娯楽映画」がおおすぎるとの定評がある。』
『ドイツには約4千の映画館があるから、最小限750本の映画を必要とするが、自国の製作能率がひくい以上、外国映画(主として英米作品)を多數輸入しなければならない。しかも、西ドイツでは、製作會社、配給會社ともに群小會社が多く、不安定きわまりない状態にある。また、東ドイツでは、1年に60回くらい映画を見に行くはずの観客が、生活難のために1か月に1回くらいしか行かれなくなったので、映画館の興行は上つたりとなった。西ドイツの銀行が映画事業をたすけることができないのも、西ドイツ映画製作を困難にした有力な原因の一つである。さらにまた、監督者も、必要にせまられて濫作をするし、むかしの夢をおう俳優たちは高い報酬を要求するし、金づまりの企画部はシナリオをストックする餘裕もなく、このようにしてドイツ映画は、極度の貧窮状態にあった。』(以上、引用終わりです)
ただ、こういった傾向も少しずつ改善されつつあり、優れた作品もぼちぼち見られるようになった、と筆者は書いておりました。『連合國が、ドイツ映画のカルテル化を禁じる法律に手心をくわえれば、むかしのウファの害毒をくりかえさないかぎり、事業的に復活のめあてはある(引用いたしました)』んだそうです。スゲーと感心しますのは、ドイツ語の文献がなかなか手に入らない様子ですのに、対談では皆さん(と言っても2人ですが)とても詳しい。戦後作品に関する感想や批評が熱~く語られておりました。
ナチ時代に活躍していた監督や俳優たちは、戦後しばらく撮影や出演ができない状態でしたが、この時点で少しずつ戻ってきているとのこと。また、ヒルデガルト・クネフという女優さん(『殺人者は我々の中にいる』でヒロインを演じた女優さんです)があちこちの記事で登場しているのが目につきました。このころから目立って露出が増えてきたんでしょうね。
しかし驚くのは、「一年に60回見に行くはずの」という箇所。テレビが普及する前ですから、ニュース映画を見に行く感覚で戦後も「60回は見に行ってもらわないと採算が合わない」んでしょ~か。驚きです。
それにしても。 こういった古い雑誌って、当時の雰囲気がダイレクトに伝わってくるのでホントに面白い。埃っぽいので手が汚れますすが、そんなことはどうでもいいのでした。乱暴にめくると敗れてしまいそうなので、そ~っと、そ~っとめくりながら当時に思いを馳せるほにゃくハリとほにゃく犬。