Bunzlauer Keramik (ブンツラウの陶器)と シュレージエン
2011年 07月 17日
もしかして、初めて拙ブログに来てくださった方もいらっしゃるかもしれないので、シュレージエンのブンツラウ陶器について書かせてください~~。
★ブンツラウアー陶器とはナンジャラホイ?(過去の記事からコピペです)
『Bunzlau (ブンツラウ、二―ダーシュレージエン地方にある都市。第二次大戦後からポーランドの都市となり、今はポーランド語で Bolesławiec 、ボレスワビエツと呼ばれています)を中心とした地域で昔から作られている伝統的な陶器。シュレジエン地方では陶器作りに適した土が取れるそうで、その土を使って高温で焼かれた陶器は丈夫なんだそうです。フリードリヒ大王の時代からプロイセンの領地となり、王の保護下で盛んに生産されたそうです。当初は釉薬を使わない素朴なものでしたが、他の地方の美しい陶器との競争に勝つため、白地に鮮やかな色合いの陶器が開発されたんだそ~です。ぽってりとした形と、濃いブルーの素朴な柄が特徴的。ドット柄やPfauenauge(クジャクの目)と呼ばれる柄が有名。どれも手描きだそうです。ところが第二次大戦でドイツの敗戦に伴いポーランド領に。窯は相次ぎ閉鎖となり、職人たちは各地に散らばり、逃れた先で窯を再開することとなりました。』
…という、歴史に翻弄された地域の陶器なのでした。シュレージエンって西洋史の授業で何度か出てきました。英語読みで「シレジア」と呼ぶほうが多いのかしら。ドイツ語読みでも、「-」をつけずに「シュレジエン」と書く例も多いみたいです。ご参考までにブリタニカ国際大百科事典から引用いたしますと…
『シュレジエン:シレジアとも呼ばれる。中部ヨーロッパのオーデル川上・中流域の地名。現在大半はポーランド領(ポーランド名シロンスク)で、一部はチェコ領。山がちだがオーデル河畔の低地は肥沃で、農業、牧畜などが盛ん。地下資源も豊かで、石炭、鉄鋼、亜鉛などを産出するので、歴史上常に紛争の中心であった。地名はバンダル族の一部族名に由来しているが、中世以来ボヘミア、ポーランドの勢力下にあった。しかし12世紀以後ドイツ人の入植が盛んになり、急速にドイツ化した。ウロツワフ(ブレスラウ)はドイツ人の建設した年で、ハンザ同盟にも加わり、商業の中心であった。16世紀からはボヘミアとともにオーストリアのハプスブルク家の支配下に置かれたが、18世紀オーストリア継承戦争の際、プロシアのフリードリヒ2世が進入、オーストリアの数次にわたる奪還の意図もむなしく、プロシア領となった。第一次大戦後の1921年その帰属を決めるため、ベルサイユ条約に基づく人民投票が行われ、住民の過半がドイツへの帰属を希望したが、上シュレジエンはポーランドに帰属することになり、ドイツ人を憤慨させた。第二次世界大戦の結果オーデル川、ナイセ川の線が国境とされ、シュレジエンの大半はポーランド領となった。(以上、引用終わり)』
↓ ちょっと分かりにくいのですが、シュレジエンの地図です。パブリックドメインだとあったので、ウィキから拝借したのですが、大丈夫でしょうか…?(ちょっと不安) クリックすると大きくなります。ブンツラウを四角で囲んでみました。左端にドレスデンが見えますので、位置は何となく想像つくかな~なんて。
↓ 先日買った、紺地に白の目玉柄。タコのパウル君の吸盤柄ともいふ。窯は違うのですが、以前買ったカップと形がそっくりです。どちらも取っ手にポッチがついててキュ~ト♪