ローラント・フライスラー(Roland Freisler)
2009年 05月 10日
『フライスラー:1893-1945、1942年から45年まで、ベルリンの民族裁判所(Volksgerichthof)長官。また、ユダヤ人虐殺のシナリオを練った42年のヴァンゼー会議出席者の1人としても知られている。フライスラーは法律家の資格を取得し、やがてロシアで捕虜を体験、1925年にナチ党に入党する。その後、ヒトラーお気に入りの法執行者となり、43年に「白バラ運動」のショル兄妹、そして翌年のヒトラー暗殺未遂事件(あり注:映画「ワルキューレ」で知られる7月20日の暗殺未遂事件のことですね)関与者を裁いた。彼が裁くベルリンでの公判の模様が映画に収められているが、それには大声でがなり立て、死の宣告前の囚人に対する計算し尽くされた精神的虐待を加える彼の様子が映し出されている。』(以上、三交社「ナチス第三帝国事典」より一部引用しました)
『フライスラーは真赤な法服をまとって登場し、ほとんど1人で審理を進めた。怒鳴り散らすかと思うと長広舌をぶち、被告の発言を思うままにさえぎった。とくに被告が反ナチ行動に出た動機を説明しようとすると、揚げ足をとり、皮肉を浴びせ、ついには発言を禁じた。現代の感覚でいう裁判とは似ても似つかぬもので、ひっきょうナチズム礼讃の茶番にすぎなかった』『被告たちを次々と容赦なく処刑場におくりこんでいたフライスラー自身に、運命の鉄槌がしのび寄っていたことを本人は、知るべくもなかった。45年2月3日の午後、シュラーブレンドルフに対する公判が始まろうとしたところで、空襲警報のサイレンが鳴り響き、判事、検事、被告ともぞろぞろ地下室に避難した。その直後、人民裁判所の建物が直撃弾に見舞われ、フライスラーは落ちてきた地下室の梁の下敷きになって瀕死の重傷を負い、すぐ病院に担ぎ込まれたが、死んでしまったのである』(以上、中公新書「ヒトラー暗殺計画」小林正文著 より引用しました)
↓ 当時の記録映像です。44年7月20日の総裁暗殺未遂関連の裁判のようです。英文字幕入り。
↓ こちらは入廷の様子も記録されております。