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by Alichen6
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ベルリンの楽しいお店


 すっかりご無沙汰してしまいました。ちょっとバタバタバタバタ=3=3=3 してしまいまして… 留守中にブログに来てくださいました方、何のお構いもできずすみません…。せめてお茶くらいお出しできたらよかったのですが^^;

 さてさてさて、ベルリンで友人と待ち合わせをしました。彼女が連れていってくれたお店がなかなか楽しかったので、ご紹介しちゃいますっ フリードリヒシュトラーセ駅のすぐ近く。その名も「Ständige Vertretung」(サイトは → コチラ)。この名称を聞いてピンとくる方、あなたはワタシと同世代です!そー、ヒデキ感激☆の世代!(←嬉しくもなんともないですね^^;) そーです、冷戦時代に西ドイツが東ベルリンに置いていた組織。「常駐代表部」で、大使館に代わるものでした。

 このお店は、特にソレとは関係ないようです。シャレで名付けたのかな。もともとはボンにあったお店だそうですが、ベルリンにも進出したみたい。ボンと言えば、かつての首都。ベルリンに首都の座を奪われた形ですが、「ベルリンは代理(Vertretung)に過ぎないのよっっっ」という声が聞こえてきそう…。そしてボンのお店だけあって、ライン地方のお料理が食べられるらしい。でも、メニューを見たら、それ以外の地方の料理もありました。人気店だそうで、予約なしだと曜日によっては長く待つみたい。私たちは2人だったので、団体客のテーブルの隅っこに座らせてもらいました(たまたま2席空いていたので)。その団体の中のおじいさんは、「Kölschを!」と、ケルンのビールを頼んでいました。

 店内がおもしろいのです。所狭しと政治家の写真が飾られています。その顔ぶれが面白い!冷戦時代を知る世代にとっては、「おお!」という有名人ばかり。店内で大っぴらに写真を撮りまくるのはよくないと思い、急いで撮ったので画像がブレています。。すみません。
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懐かしい顔ぶれ。ゲンシャー元外務大臣やブラント元首相も見えますねー。
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ワタシは、アルザス地方名物フラムクーヘンを頼みました。ちょっと塩がキツかったです。右はコースター。このミミズクがお店のトレードマークのようです。
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*********************

 さてさて、団体客のテーブルの隅っこに座らせてもらったワタシたち。アウクスブルクから来たというシルバ~な方々の一団でしたが、そのうちの1人(かなりご高齢)に言われました。「キミは日本人?確か、日本とドイツは、今までに戦争で戦ったことはないよね?ずっと仲がよかったよね?」

 は、は、初めてこの類のことを言われましたー! 「ドイツ人のおじいさんが片目をつむって『今度はイタリア抜きでやろうぜ』といった」的な、日本人にとってある意味“気持ちのいい話”は(ドイツ人が好意を見せてくれた、という意味で)まことしやかに語られますが、あんなものは都合のいい作り話だと思っておりました。そのものズバリではないですが、それにちょっぴり似たことを言われて私は驚きましたよ。「いえ、残念ながら第一次大戦で対戦しています」と答えちゃいましたが。そのおじいさんも、すぐに「あ、そうか。確か中国でだよね」と。

 ま、そんな話はどうでもいいのですが、とにかく面白いお店でした。もしベルリンにいらっしゃることがあって、どこか面白いお店に行きたいなーと思われましたら、是非。
by Alichen6 | 2014-09-26 08:31 | ドイツ珍道中 | Comments(4)

 前から見たいと思っていた映画があります。G.W.パープスト監督の出世作「喜びなき街」(1925)。サイレント映画です。まだまだ無名に近かったグレタ・ガルボが主演の1人を演じ、これで一気にブレイクしたんだそうです。残念ながら日本語字幕入りは廃盤なのか、手に入らないみたい。YouTube ではフランス語字幕入りが全編見られますが、画質が悪いので分かりづらいかも。私はオーストリア版のDVDを貸していただき、鑑賞しました。日本ではなかなか見られない作品をご紹介するのは申し訳ない気がします。以下、自分用のメモみたいなものです…。すみません。もしご興味がありましたら、チラ見ならぬチラ読みしてみてくださいませ。

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『喜びなき街』 (原題:Die freudlose Gasse )
監督:G.W.Pabst (G.W.パープスト)
撮影:Guido Seeber (グイド・ゼーバー)
原作:Hugo Bettauer (フーゴ・ベッタウアー)
出演:Greta Galbo(グレタ・ガルボ)、Asta Nielsen(アスタ・ニールセン)、Werner Krauß (ヴェルナー・クラウス)

<簡単なあらすじ>
 1921年ウィーン。かつての華やかな繁栄は過ぎ去り、庶民は第一次大戦後の混乱とインフレ、貧困にあえいでいます。メルヒオール横丁の住民も例外ではありませんでした。肉を手に入れるのは至難の業。翌日に肉が売り出されるとの知らせを聞き、人々は前の晩から精肉店の前で行列を作るのでした。しかし精肉店の強欲店主ガイリンガーは、富裕層に高く売りつけるために庶民には肉を売りません。何時間も並んだ末、肉を買えずに庶民はトボトボと家に帰って行くのでした。

 近所にはグライファー夫人が経営する洋品店がありました。やり手のグライファー夫人は、洋品店のほかにナイトクラブやホテルも経営し、借金のカタに若い娘を自分のクラブで働かせ、売春のあっせんをしていました。そして上前をハネるという典型的なやり口。言葉は悪いけれど、いわゆる「遣り手ババア」ですね。そのナイトクラブでは、経済の混乱に乗じて財産を築き上げた成金たちが夜な夜なパーティを開いておりました。彼らが考えるのは金と女のことばかり。また、そこに出入りする有閑マダム(死語?)はひとときの情事にふけるのでした。

 メルヒオール横丁に住む貧しい家庭の娘、マリア(アスタ・ニールセン)はフィアンセに貢ぐため、娼婦へと転落します。このフィアンセは、マリアと結婚の約束をしておきながら、金目当てで成金の娘と結婚しようとナンパに余念がありません。マリアの家のすぐ上に住むグレーテ(グレタ・ガルボ)は役人の父・幼い妹との3人暮らし。しかし父は退職金を株の投資につぎ込み、株の暴落で一文無しとなってしまいます。父の借金を返すため、グレーテもグライファー夫人の店で働くことになります。しかし、いかがわしいショーに出演する寸前、裕福なアメリカ人に救われます。

 すさまじい貧困の中、庶民の怒りは頂点に達します。彼らが向かった先は…

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 第一次大戦後の混乱とインフレにあえぐ没落した庶民。その日食べるものにも困り、寒風吹きすさぶ冬の夜、精肉店で夜通し行列を作る。一方でグライファー夫人が経営するナイトクラブでは、成金たちが、夜な夜なパーティを開いている。彼らが考えることは金儲けと色事。非常に退廃的です。心は清いのに貧困ゆえに身を持ち崩す女性2人も明暗が分かれます。片や、本当に転落してしまうマリアと、最後の最後に「王子様」に助けてもらうというハリウッド的結末に救われるグレーテ。ウィーンの「明」と「暗」が様々な形で交互に描かれ、これでもか、これでもかと当時の社会の不条理や矛盾を見せつけられる気がしました。

 私の知識不足で、本からの受け売りなのですが(恥)、パプスト監督はドイツ映画界で「Neue Sachlichkeit (新即物主義)」という新ジャンルを取り入れた監督なのだそうです。1920年代前半は、「カリガリ博士」に代表される表現主義の映画が大流行。人間の内面のドロドロや狂気、不安などを光と影を駆使して描くスタイル。しかし表現主義の映画は次第に飽きられます。そんな中、様々なジャンルの映画が作られるようになりますが、パープストは現実をリアリスティックに描く監督だったのだそうです(ああ、こういう時に私の知識の浅さが出るんですね…。監督の名前はもちろん知っていたけれど、これまであまり関心もなく、調べることもありませんでした…間違ったことを書いておりましたら、ご指摘ください)。

 ところでこの作品の原作は、ユダヤ系のジャーナリスト&作家フーゴ・ベッタウアーという人です。前に一度だけ、このブログでご紹介したことがありました → コチラ。1925年3月に暴漢に襲われたのが元で亡くなったとのこと。「喜びなき街」の初公開が同年5月ですから、公開を待たずして亡くなったんですね。また、この過去ログに載せた雑誌の表紙は、この映画のワンシーンです。

e0141754_21133251.jpg 当時20歳だったグレタ・ガルボがめちゃくちゃキレイ…!ハタチとは思えない大人びた表情を見せています。目深にかぶった帽子も素敵だし、オフィスでタイプを打つ姿も美しい…。とってもスレンダーだったんですね。この映画、サイレント映画ゆえに分かりづらい箇所もありますが、明と暗を対比しながら巧みにエピソードを織り交ぜていく作りに引き込まれました。私ったら二回も見ちゃいましたぜ。ハリウッド映画のようなテンポのよさはないので退屈に感じられる箇所も確かにあるけれど、当時の世相を鋭い視線で描き出す演出は圧巻。私は個人的に「見てよかった!」と思ったのですが、一般的にはどうなのかしら。傑作と呼ばれているので、きっと同じ意見の人が多いんだろうなぁ。

 しか~し。廃盤になっているのがモッタイナイ。ご縁があるといいなぁ…(本音)
by Alichen6 | 2014-09-14 14:45 | ドイツ映画 | Comments(0)

ワイマ~ル


 皆様、東京は気持ちのよい秋晴れです。皆様がお住まいの地域はいかがでしょうか。穏やかな天気が続いてほしいものですね。

 さてさて、私の珍道中日記にお付き合いいただき、恐縮しております。ありがとうございます。まったく順不同で申し訳ないのですが、今日は「ワイマ~ルへ行っちゃったの巻」です。有名な町ですので、行かれた方も多いと思います。ほにゃく犬目線(ダックスなので目線低し!)で書いちゃいますねー。

 町のいたるところに、こんな(↓)道案内が。ゲーテやシラーがかつて住んでいた家があるハズ。
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 ↓ 町の中心地です。左上は、あまりにも有名なゲーテ&シラー像。右上は「シラー通り」の看板です。「ゲーテ通り」とか「シラー通り」って、ドイツの全ての街にあるんちゃうかーと思えるほど多いですよね。でも、ここは正真正銘、ホンモノのシラー通りですね。(←これが書きたくて撮った^^;) 左下は市庁舎。右下はラーツケラー(市庁舎の地下レストラン)。しかし市庁舎とは別の建物にあります。
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 ↓ 今回、とっても感動したのがココ。街中に、それはそれは小さな映画館がありました。知る人ぞ知る旧東独の作品「パウルとパウラの伝説(1973年)」のポスターが入口に貼ってあったのです。それに吸い寄せられるように中へ。左上は1929年製の映写機。その下は、映写機に貼ってあった説明。「エルネマンⅣ」という機会だそうです。19世紀末、帝政ドイツの時代に生まれたカメラの会社。のちに映写機で有名になったそうです。1926年には他のカメラメーカー数社と合併して Zeiss-Ikon (ツァイス・イコン)というカメラ会社になります。でもエルネマンの映写機はとても評判がよかったとのことで、ブランド名として残ったそうです。右上は、この時上映していた作品。そー、「コーヒーをめぐる冒険」です。その下が「パウルとパウラの伝説」。一番下は、映画館入口に貼ってあったポスターたち。知っている映画も何本かあり、きゅんとしました。

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 ↓ さてさて、ワイマールに来た以上、有名な観光スポットは回っておかなくてはなりません。訪れたのがシラーハウスとゲーテハウス。どちらも今、ミュージアムになっています。しかしシラーのほうは改装で休業中。ゲーテのほうも工事中ではありましたが、オープンしていました。しか~し。モロモロの事情でゲーテはパス。

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 ↓ ワイマールには2人の文豪のほかに、作曲家のリストもいたんですね。こちらは中に入っちゃいました。こぢんまりとしていましたが、素敵な邸宅。右上はサロンの片隅に置いてあった当時の家具。ベートーヴェンを尊敬していたそうで、肖像画もかかっていました。左下は机。右下がサロン。ピアノのレッスンも彼の収入源だったそうですが、そのレッスンはここで行ったそうです。ゴージャスなグランドピアノとアップライトが置いてありました。

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 ↓ またまた食べ物なんて載せてしまって、すみませんっっ ラーツケラーで食べちゃいました。私一人で食べたわけじゃないんですよ、念のため。左上がご存じ、ヴィーナーシュニッツェルです。安定のデカさ。右上が Krautwickerl (だったかな?失念…)。お店の人は「Kohlrouladen(ロールキャベツ) とは違う」と言っていましたが、どう見てもフツーのロールキャベツじゃん。左下は、典型的なドイツのサラダ。久しぶりに遭遇しました。今のドイツには、一昔前にはなかった華やかで珍しい野菜がたくさんありますよね。EUの恩恵。ちょっと前までは、ドイツのサラダってこんな感じでした。キャベツと紫キャベツ、そしてニンジンをドレッシングで和えただけのサラダ。「おお!正統派だ!」と懐かしくなったでございます。そして右下がワイマール駅前にあったホテルのカフェで食べたアプフェルシュトゥルーデルです。ぬゎんとバニラソース&アイスクリーム&生クリームつき!スゲー!!出す前にもう一度オーブンで焼きなおしてくれたらしく、アプフェルシュトゥルーデルの皮がパリッとしていて美味しかったです。ソースや生クリームも甘味を抑えてあったので、意外とバクバク食べられちゃいました。昼にあれだけ食べたあとなのに、これまた完食。ゲプッ

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 …そんなワケで、ほにゃく犬はワイマールを堪能したのでありました。このあと、ブーヘンヴァルト強制収容所へ行って、ズドーーーーンと来たわけですが…  こんな個人的な旅行記を読んでくださって、本当にありがとうございます。
by Alichen6 | 2014-09-13 17:37 | ドイツ珍道中 | Comments(0)

1989年9月11日


 また1日過ぎてしまいましたが、25年前の昨日9月11日は、ハンガリー政府が、自国に押し寄せていた東ドイツ国民のために西側の国境を開いた日なんだそうです。開いた時刻は日付が変わったばかりの0時00分。これは大きな出来事ですよね。一気に歴史の歯車がガチャン!と音を立てて回り始めた日でした。新聞報道も覚えています。これはハンガリーと東ドイツ間で結ばれていた協定を破る決断なのですから… そしてこの日以降、大勢の東ドイツ国民がハンガリーからオーストリア経由で西ドイツへと流れていくことになります。

 大使館のサイトは → コチラ


ハンガリーから西ドイツへやってきた東ドイツ国民について報道するARD(国営第一放送)のニュースです。YouTube にありました。ご存じ、「ゴォォォーーーン… Hier ist das erste deutsche Fernsehen mit der Tagesschau. ちゃーーん、ちゃーーん、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃーーーーん♪」です。「グッバイ、レーニン」で病床のお母さんが聞いちゃったヤツ。「同志ガンスケが西のテレビを?」とお母さんがビックリしましたよね。それに対するアレックス君の答えも笑っちゃいました…。ガン助が恋をしたという、とっさのウソ。ああ、久しぶりにあの映画が見たくなってきた・・!



 この1日前のニュースも見てみました。前日の段階で、「ハンガリーが今夜遅くに国境を開く見込み」と報道されていましたので、これを見た人たちがさらにハンガリーへ向かったんでしょうね。こうなっちゃうと、もう止まらない…。あとから振り返ってみると、11月の壁の崩壊は歴史の必然だったようにも思えますが、当時は誰もそこまで予測していなかったハズ。
 
 なお、この中で「Notaufnahmelager(緊急受け入れ施設)」という言葉が出てきますよね。これが今の私にとってはキーワードでして、イロイロ調べておりました。このニュースに出てくるのは、文字通り「緊急に作られた仮受け入れ施設」的なものらしいのですが、これ以外にきちんとした施設があるのです。1950年9月30日に西ドイツで施行された「Bundesnotaufnahmegesetz(定訳がないようなのですが、あえて訳すと連邦緊急受け入れ法?)に基づいて1950年代に建設された施設です。東独から逃げてきた人、亡命してきた人を受け入れるための場所で、西ドイツ内に3か所あったそうです。ベルリン、ギーセン、そしてイェルツェンというハンブルク近郊の町。東西ドイツがそれぞれ1949年に建国されますが、その後も東から西へと逃げる人が後を絶たなかったようです。ベルリンの施設は今ミュージアムになっているとのこと。実は今回の旅行でもそこまで行ってきたのですが、ぬゎんと休館日!トホホでした。これも次回、リベンジするぞ!

↓ マリーンフェルデ緊急受け入れ施設の外観。中に入れなかった…!残念。
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by Alichen6 | 2014-09-12 10:27 | 今日は何の日? | Comments(0)

旧東ドイツの友人と


 またまたドイツ珍道中に戻ります。今回、26年ぶりに旧東ドイツのお友達のお宅にお邪魔してしまいました。前回会ったのは1988年。壁が崩壊する1年前でした。本人はもとより、妹さんもご両親もまったく変わらず、ヒデキ感激☆ なお、その友人と「Überraschungsgast(サプライズゲスト)」ということにしよう!と申し合わせておいたので、当日お邪魔することは内緒にしておりました。サプライズは大成功!お父さんもお母さんも妹さんも、口をあんぐり。驚くと人間ってそうなっちゃんだなーなんて思っちゃいました^^;

 友人宅は、Prenzlau (プレンツラウ)というところにあるのです(地図は → コチラ)。ベルリンからアウトバーンを飛ばして1時間ちょい。こ~んな教会があります。マリア教会 ↓  13世紀に建築されたもので、レンガ造りのゴシック建築としては、かなり古い部類に入るんだとか。戦争で破壊され、DDR時代に再建が始まったものの、資金不足でなかなか進まなかったみたい。統一後に再び再建が始まりました。完成はもう少し先になるようです。あの日は天気が悪くて、写真もちょっと暗いです…。
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 近くで見ると、かなり古いことが分かります。外壁は焼け残ったそうですよ。だからこのレンガはかなり古いハズです。2つの塔は、わざとアシンメトリーになっているみたい。前と後ろじゃ、かなり印象が変わりますよね。
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 なんでも、1632年12月20日から22日まで、スウェーデンの国王グスタフ・アドルフ(グスタフ2世アドルフ)の遺体がこの教会に安置されたんだそうですよー。このグスタフ・アドルフってドイツの30年戦争(1618-1648)の話では必ず出てきますよね。北ドイツにおけるカトリック勢力を抑え、プロテスタント勢力を解放するとの理由で参戦したのでした。グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍はこのあたりにまでやってきて戦ったらしいです。そしてドイツの北部(ポンメルン地方)は、1648年から1815年までスウェーデンの支配を受けることになります…。

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 さてさて、この友人は普段、オーデル川流域のシュヴェットという町で働いております(地図は → コチラ)。そこへ車で連れていってくれました。オーデル川と言えば、ドイツ=ポーランド国境。ホントにドイツの端っこで、川の向こうはポーランドです。シュヴェットには大きな製油所があります。ベルリンで消費される燃料の95%をまかなうんだそうです。ドイツ全体で見ると、全消費量の10%に相当するんだとか。そしてそれに使う原油のほとんどがロシアから来るんだそうです。そのため、ロシアに対して経済制裁を課すと報復で原油が入ってこなくなる可能性があるとか。だからロシアとの関係を悪化させるわけにはいかないみたい。産業の少ない東部ドイツですから、この製油所は非常に大切な存在なんだそうです。うーん、メルケルさんが難しいかじ取りを迫られている理由の1つが分かったような気がします。


 旧東ドイツ時代に建てられた団地です。住民は製油所に勤める人が多いそうです。共産圏名物、いわゆるPlattenbau(プラッテンバウ)ですね。でも、きれいに色を塗り替え、窓に花を飾ったりして、昔とはだいぶイメージが変わりました。それでも、ちょっぴり寂しい感じはいたします。
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 国境沿いに住む住人が、隣の国へ買い物に行くというのは、よく聞く話ですよね。ポーランドのほうが食料品やタバコ、散髪代にガソリン、そして植物の苗などが安いんですって。しかも日曜日でも開いている店も多いとか。なのでポーランド側のお店はドイツ語で看板を出しています。逆にポーランドの住人は、ドイツまで家電製品やオシャレな雑貨などを買いに行くんだそうです。
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 記念にポーランドの駄菓子を買いました。当たり前ですが、全部ポーランド語。ただし店員さんはドイツ語がめちゃくちゃ上手。さてさて、気になるお味ですが…    どれも極甘でした^^;
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by Alichen6 | 2014-09-10 23:04 | ドイツ珍道中 | Comments(8)

 昨日の続きです。東京国立近代美術館フィルムセンターが、「映画の教室2014」という企画の中で「新しき土」ファンク版と伊丹版を上映してくれることになりました(サイトはコチラ)。ファンク版は見たことがあるのですが、幻の伊丹版は未見。張り切って出かけてきました。

 ご参考までに、ファンク版の予告編を貼りつけますね。山岳映画の巨匠と呼ばれたファンク監督らしく、雄大な山の映像が出てきます。有名な「阪神電車」のネオンも!


 さてさて、絶賛の嵐だったファンク版に比べ、伊丹版はボロクソに非難されたとのこと。脚本もカメラも共通ですから、よっぽど編集が違ったんだろう、と私は思っておりました。ようやく伊丹版が見られるということで、しかとその違いを見届けてやる!と張り切りました…。

 大きく違ったのは2か所。冒頭でいきなり「日本好きな外国人監督が撮った映画なので、日本人からするとおかしな箇所が随所にありますが、大目に見てね」といった内容のテロップが伊丹監督本人の名前で流れます。これを見て、まずビックリ。そしてラスト。輝雄と光子は結ばれ、「新しき土」、すなわち満州へ渡って土地の開拓に当たります。そこを警備する日本の兵士が写るのですが、ファンク版ではその兵士がニヤリと不敵に笑って大写しになります。その後の日本による満州侵略を暗示するかのよう。一方、伊丹版では兵士の姿がちょこっと写るのみ。それ以外は大きな違いがない…!大和家の庭が厳島神社なのですが、これはファンク版も同じ。立派な「日本の女」に育てるべく、大和家の父親が娘に様々な芸事を仕込みます。生け花、茶道、水泳、弓道、語学… これでもか、これでもかと出てきますが、これもファンク版と同じ。海外(ファンク版はドイツなのに対し、伊丹版はイギリス)から帰国した輝雄がずんぐりむっくりなのも、西洋と日本の価値観の違いに悩むのも同じ。夜の東京のシーンもほぼ同じですが、「阪神電車」のネオンはナシ。伊丹監督、さすがに「これはマズイ」と思ったのでしょう。

 とにかく、大筋は同じなのです。しかし、そんな中でも伊丹監督ができるだけ「トホホ」な部分を減らそうとしているのは伝わってきました。

 あれだけ非難されたのですから、伊丹版は大きく違っているのだとばかり思っていただけに、なんだか肩透かしをくらった気分。なーんだ、ほとんど変わりないじゃん!むしろ、「トホホ」な部分を減らした伊丹版のほうが、よっぽど優れているようにすら思えます。あの非難は何だったんでしょう?

 昨年、ファンク版が75年ぶりに劇場で公開されました。その際に豪華なパンフレットが作られまして、そこに「ナルホド~」と思える映画評が載っておりました。一部引用いたしますね。

(以下、キネマ旬報社の「新しき土」、映画評論家の佐藤忠男氏の解説から引用いたします)
『以上のような経過で、日本を描いた映画としてはかなり奇妙なところのある作品となった。しかしそれを承知のうえで日本人はこれを受け容れ、興業的に大成功であった。西洋人が日本の美しさに感動し賞賛している映画であることが日本人として嬉しかったということであると思う。とくに主役に起用された原節子が、日本女性の美しさ純真さを代表して世界に紹介されるということへの期待が大きかった。』

 最初に公開されたのが伊丹版でした。これを見て、日本の観客は激怒します。なんだ、このヘンテコリンな日本は! 日本人のくせに、こんな日本の描き方があるか!と。しかし翌週、大きな違いのないファンク版が封切られると、悪評が一転、大絶賛の嵐に。ここから先は、あくまでも私の個人的な感想ですが、外国人の巨匠がやったのならOK,ということなんでしょうか。この映画評論家の方が書いていますように、日本人の自尊心がくすぐられるものがあったのかもしれませんね。何しろ、映画が作られる前からあの騒ぎでしたから。「ドイツの巨匠、来日す!」みたいな感じで。その嬉しさが、妙な描き方に対する違和感や失望を吹っ飛ばしてしまったのかも。もう一方で、何となく政治的なニオイも感じてしまうのです。日独防共協定のためにも、悪評を打ち消す必要があったのではないかと。映画に対する失望は、すべて伊丹監督の責任にしてしまったような気がしてなりません。その伊丹監督は、最後まで弁解一つすることなく、墓場に持って行ってしまいました。今となっては、何があったのか知るすべもありませんが…。

 なお、この映画の編集者が今もご存命で、このパンフレットで対談をしています。反戦で知られる伊丹監督ですので、最後のシーンは抵抗したようです。兵士がアップで写るシーンは絶対に入れたくないと。それで兵士がちょっと写る程度にしたようです。本当は全部削除したかったようですが、それは無理だったみたいですね。

 長くなってスミマセン。たかが映画、されど映画。これはただの文化的な合作映画とは違い、複雑な事情がからむ「いわくつき作品」なんですね。昨日ご紹介した批判記事では「自己弁護とそしられようとも、説明をしろ」と迫っていましたが、伊丹監督はとうとう何も語らなかった模様。さぞかし悔しかっただろうと思います。

*************

 余談ですが、冒頭のクレジットで山田耕筰のアルファベットが「Kósçak Yamada」となっていてビックリ。検索したところ、本人がアルファベットの場合はこの綴りでサインしていたんだそうです。フランス語っぽい。
by Alichen6 | 2014-09-09 21:15 | ドイツ映画 | Comments(9)

 『新しき土』という映画があります。日独合作です。これがですねー、映画自体は「むむ?」となっちゃう作品なのですが、制作されるに至った背景、およびその後がヒジョ~に興味深いのです。ちょっと長くなってしまいますが、もしご興味がありましたらお付き合いくださいませ。
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 日独合作『新しき土』 (1937年)
 ドイツ語タイトル『Die Tochter des Samurai』
 監督:アーノルト・ファンク、伊丹万作
 カメラ:リヒャルト・アングスト
 音楽:山田耕筰 (作詞:北原白秋)
 撮影協力:円谷英二
 出演:原節子、小杉勇、早川雪洲、ルート・エヴェラー

 <簡単なあらすじ>
 農家の息子である輝雄は大和家の養子となり、ドイツへ8年間の留学に出してもらいます。日本に戻ったら、大和家の一人娘である光子と結婚することになっていました。ドイツで西欧風の思想にすっかり染まった輝雄は、留学費用を出してもらった義父に感謝しつつも、自分の思うように生きたいと考えるようになります。そしてドイツ人の恋人ゲルダを伴って帰国するのでした。輝雄の帰国を首を長くして待っていた光子は、ゲルダの存在にショックを受けます。自分の夢がかなわないと悟った光子は、婚礼衣装を手に、火口へ身を投げるべく山を登っていくのでした…。

 …という、日本人からすると「え?なんで火口に身投げ?ジュッとなっちゃうよ!?」と言いたくなっちゃうストーリー。裕福な大和家の庭が厳島神社だったり(爆)、帰国する輝雄を迎えに東京へ行くと、そこになぜか「阪神電鉄」のネオンが出てきたり、BGMが東京音頭だったり…日本人からすると、見ていて「ぎょぎょ!」となるトホホなシーンが満載です。なぜに、こんな「なんちゃってニッポン」が?  …それはドイツ人監督が撮ったからなのです。

 この映画製作の背景は複雑です。第二次大戦の前、日独防共協定を締結する直前にプロジェクトが持ち上がりました。いつもウィキで恐縮ですが、分かりやすく書かれているので下に引用しちゃいます。(以下、引用です)
『この映画の製作背景には日本とナチス・ドイツの政治的・軍事的接近の目論見があった。ナチスの人種主義では有色人種を良く思っていなかったため、ドイツ側は日本のイメージを持ち上げることで同盟の正当性を主張しようとしたのである。折りしも日独合作映画を企画していた川喜多長政とアーノルド・ファンクにドイツ政府が働きかけた結果、この映画の製作となった。1936年2月8日の撮影隊の訪日には日独軍事協定締結交渉の秘密使命を戴したフリードリヒ・ハックが同行、同年11月25日に日独防共協定が締結に至った。1937年3月23日に公開されたドイツでは、宣伝省の通達によりヨーゼフ・ゲッベルスとアドルフ・ヒトラーが自ら検閲して最終許可を与えたことが大々的に報じられた(ただし、ゲッベルスは日記で「日本の生活や考え方を知るのに良い」と評価する一方で、「我慢できないほど長い」と不満を述べている)。』(以上、引用終わりです)

 このフリードリヒ・ハックは、ドイツの撮影隊一行が来日した際に一緒に来ているんですよね。キネマ旬報昭和11年(1936年)2月21日号は、「ファンク博士一行 晴れの入京」との見出しで、彼らが東京に到着した様子を伝えています。その同行者の中に「指揮者ハック博士」の名前も。スタッフということで来日したんですね。その後、一行の動向を伝える報道は加熱するばかりですが、ハックの名前は見当たらない・・・。本来の任務を遂行するために、一行から離れたのかも。

 ところで「新しき土」の宣伝がものすごいのです。まだ撮り始める前からマスコミは大騒ぎ。ドイツ側の監督は山岳映画の巨匠。あのリーフェンシュタールを主役にして何本も山岳映画を撮り、ヒットさせています。そんなビッグな監督が最新式の望遠レンズがついたカメラを手にやってきたのだから大騒ぎするのも当然かも。 日本側の監督は伊丹万作。あの伊丹十三監督のお父さんです。そして主役は伝説の大女優、原節子。当時はまだ16歳だったそうです。確かにきれい。目鼻立ちがはっきりしていて、日本人離れした顔立ちでしたね。しかもスレンダーで品があり、和服も洋装も似合う。この映画の主役にぴったりです。一方、ドイツ帰りの輝雄を演じた俳優さんは、えっと… そのう… ずんぐりむっくりで… いや、これ以上はやめておきます。ローライズを見慣れているせいか、それともこの方が特にそうなのか、とにかく股上の長さが…。もう少しカッコいい人がよかったなぁ。 一方、お父さん役はハリウッドで大活躍していた早川雪洲。さすがの存在感です。

 スタッフも豪華です。音楽は山田耕筰と北原白秋のコンビ。特撮を円谷英二が担当。「ウルトラマン」の原点はここだったか!と感心してしまうシーンがたくさんあります。とにかく、日本側もドイツ側も豪華なスタッフを取り揃えて制作に臨んだようです。

 ところが制作が進むにつれ、ファンク監督と伊丹監督の意見が合わなくなり、結局2人が別々に編集することになりました。そうしてできたのがファンク版(日・独版)と伊丹版(日・英版)。脚本とカメラマンは同じですから、内容はほぼ同じ。違うのは編集方法のみ。ところが、この2つのバージョンが明暗を分けることに…

 とにかく新聞や映画雑誌では、制作に入る前からさかんに宣伝しておりました。そりゃあもう、すごい盛り上がり方。そうして満を持して公開されたんですね。まず伊丹版、そしてその翌週からファンク版。そのファンク版は大絶賛されましたが、伊丹版がボロクソに非難されることになります。当時の雑誌から引用いたしますね。

 キネマ旬報 昭和12年(1937年)2月21日号より引用たします。旧かなづかいは、できるだけ現代のものに変えました。
『「新しき土」伊丹万作版が散々の悪評を受けた後に、ファンク版が封切られて、これは何となかなかの好評である。これでファンク博士もやっと顔が立って、機嫌を直して横浜を立っていったが、ペシャンコに潰れたのは、伊丹万作の顔である。伊丹は日本人の癖にファンクよりも日本を知らん!映画作者としての手腕に於いてもダンチにファンクに劣る!などの声が今や巷に満ちている。伊丹版というのはファンク版のエヌ・ジーでモンタージュしたのだろう、なんて痛い皮肉まで飛び出してくる。となると、それこそイタミ入るなどという下手な洒落では追いつかん。名監督トタンに迷監督のレッテルを貼られて、カナヘの軽重を問われる仕儀となった(中略) 伊丹万作よ!愚痴と言われ、自己弁護とそしられようとも、君は語るべきだ。君が如何にして拙作「新しき土」を生み出したかを』(以上、引用終わりです)

 ヒドイ…!なにもここまで言わなくても…!と、伊丹版を見る前から気の毒になってしまいました。ところがDVDで見られるのは、ファンク版のみ。伊丹版は、なかなか見られないのです。「いつか見たいなー」と思っていましたら、京橋にある国立近代美術館フィルムセンターが上映してくれることになったのです!情報を教えていただき(はせさん、ありがとうございます!)、張り切って見に行ってまいりました。

 感想は明日、書かせてくださいねー。もったいぶって引き伸ばすわけじゃないのですが、長くなってしまいましたので… すみませんっ



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こんなの載せちゃってスミマセンっっ KaDeWeの上のほうにある(何階かは失念…)カフェにて。KaDeWeに行くと、必ずここに寄るようになっちゃいました。見よ、このザーネの量!!ミックスベリーのタルトなのですが、甘味を抑えてありました。昔より、砂糖の量が減ったような気がします。昔はやたら甘いケーキが多かったですよね。どうかな。
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by Alichen6 | 2014-09-08 22:43 | ドイツ映画 | Comments(5)

1989年9月4日


 1日過ぎてしまいましたが、今から25年前の出来事を。例によって、ドイツ大使館のサイトのご紹介です(コチラ)。1989年9月4日、ライプチヒのニコライ教会にて、初めてデモが行われたんだそうです。以降、ライプチヒは毎週月曜日にデモが行われるようになります。動き始めた歯車は、もう誰にも止められない、ましてや逆に戻すなんて不可能という感じでしたね。


 地下鉄ブランデンブルク門駅にあったプレート。ベルリンの壁に関する、有名人の言葉が載っています。80年代を知る世代にはとても懐かしい。ちなみにこのU55番系統って、ブランデンブルク門駅→連邦議会駅→ベルリン中央駅という、たった3駅のミニ路線(私も教えていただいて初めて知りました…)。

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「誰も壁を造ろうなどとは思っていない」 ヴァルター・ウルブリヒト 旧東独国家評議会議長/社会主義統一党書記長(1961年6月15日)
「ゴルバチョフさん、壁を崩してください」 ロナルド・レーガン元米大統領(1987年6月12日)
「東独政府のすべての幹部、すべての将校・兵士よ、同胞を撃つな」ヴィリー・ブラント西ベルリン市長(当時)(1961年8月16日)

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「壁は50年後も100年ごも存在するだろう」 エーリヒ・ホーネッカー 旧東独国家評議会議長/社会主義統一党書記長(1989年1月12日)
(すみません、ロシア語だから分からず…日付からして、東独建国40周年の式典に招待された時の言葉ではないかと…。) ミハイル・ゴルバチョフ ソ連共産党書記長(1989年10月6日)
「ブランデンブルク門が閉ざされている限り、ドイツの問題は解決しない(オープンだ)」 リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領(1985年6月8日)

 私の訳がマズくて申し訳ないのですが、こうして改めて見てみると、言葉の力を感じます…。どれも名言であると同時に、時代の緊迫感が伝わってきます。
by Alichen6 | 2014-09-05 22:00 | 今日は何の日? | Comments(4)

 すみません、なんだか私事ばかり書いておりまして…。しかも、行き先がちょっぴりマニアックなので、読んでくださっても面白くないかも…。お付き合いいただき、申し訳なく思います。ではでは、ポツダム行きの続きです。

 グリープニッツ湖にある“小さなお城”で腹ごしらえをしたあと、よいしょっと自転車に飛び乗り今度はバーベルスベルクへ。1912年に初めてここに映画の撮影スタジオが建てられて以来、100年以上ドイツの映画界の中心地となってきたところです。その間、第一次大戦が勃発。戦後はハイパーインフレに見舞われ、ナチの台頭とともにプロパガンダ映画を造り続け、戦後はすかんぴんに。東ドイツの国営スタジオとして再スタートを切り、またまた国策映画を作り続けます。そして壁の崩壊と統一。資本主義の競争という荒波にもまれつつ、今は国内外の作品を撮るスタジオとして生き残っております…。

 さてさて、大阪にあるUSJのようなテーマパークがここにもあります。が、そちらには目もくれず、ワタシは別の方向へ。昨日も書きましたが、この界隈に映画スタアの名前をつけた通りがあるハズなのです。そうこうするうちに目に留まったのがドイツの放送局 rbb (ベルリン・ブランデンブルク放送)。入ってみると、古い食堂が…おお、あれはスタアの食堂ではないですか…!

↓ rbb局の入口です。左手に見える赤い屋根がKantine(食堂)。ここでスタアや監督たちが食事をとったらしいです。
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↓ 今は一般の人も食べられるみたい。来年、ここで何かを食べるぞ!
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↓ 奥が食堂、手前が門のそばに建つ建物。守衛さんがいたのだろうか。
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 rbb局の売店で、ついつい Sandmännchen (ザントメンヒェン)や Pittiplatsch (ピッティプラッチュ)のキーホルダーを買いこみました。知る人ぞ知る、旧東ドイツのキャラクターです❤
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 これは1912年に作られたガラス張りのスタジオです。照明が十分でなかった当時、ガラス張りにして撮影していたんですね。これに隣接するレンガ造りの建物が今も残っているという話なのに、実物を見てくるのを忘れました! ああ、グリープニッツゼー駅の写真を撮らなかったことに続き、今回2度目のシャイ●な失敗。これも来年リベンジ。
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 rbb局の敷地は、そのままバーベルスベルクのスタジオとつながっておりました。ふと見上げたら、ありました!目指していた通りが。
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 「モロッコ」や「嘆きの天使」を撮った監督、ジョセフ・フォン・スタンバーグ。日本では知名度がイマイチだけど、巨匠に数えられる監督、G.W.パープスト。アメリカに渡った監督、ビリー・ワイルダー。名優エーミール・ヤニングス。そして忘れちゃいけないマレーネ・ディートリッヒ。マレーネ・ディートリヒ・ホールも当時からあったようです。 そしてここでも失敗しちゃった。あと2人、ドイツの映画人の名前があるハズなのです。それを見逃した…(ToT) これも来年、リベンジします。

 そしてこの日一番の収穫!敷地内に、ぽつんとミョ~な像が…。そう、知る人ぞ知る「ほら吹き男爵」!ナチの時代、それも終戦間近で国民が疲弊しきった頃に、多額の予算をつぎ込んで作られたカラー作品です。そのほら吹き男爵がこんな所に野ざらしで…!よく見ると上着の下のほうに草が生えてます^^;
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 …というワケで、失敗も多かったけれど、楽しい1日となったのでした。マニアックな話ですみません。最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。
by Alichen6 | 2014-09-03 21:51 | ドイツ珍道中 | Comments(2)

 またまた順不同ですが、ポツダムへも行ってきました。以前ご紹介したポツダムの映画博物館(コチラとかコチラとか)は、改修のために長期休業。秋に再オープンなんですって。今回の目的は別のところにあるのです。黄金の20年代に映画撮影の中心地だったバーベルスベルクへ行き、俳優の名前を冠した通りを見てカメラに収めるぞ!という目論見。しかしポツダムも結構広い。そんなワケで、貸し自転車で回っちゃいました。

 ポツダムへはイロイロな行き方があると思いますが、今回はS-Bahn のS1でPotsdam Griebnitzsee(ポツダム・グリープニッツゼー)駅へ。 うかつにも、駅の写真を撮るのを忘れた!グリープニッツゼー駅は歴史ある駅だったんですね。第二次大戦前は「Neubabelsberg (ノイバーベルスベルク)駅」という名前でした。バーベルスベルクの映画スタジオから近いこともあり、銀幕のスタアが乗り降りした駅だったのです。ウィキ(コチラ)を見ていただくと分かりますが、駅舎がほとんど変わっていない…!そして大戦後は東ドイツに属すことになります。ここは国境駅となり、一般の客の乗降はできなくなりました。東西を行き来するS-Bahnがここで停車し、検問を受けたとのこと。私はこのルートで東に行ったことはなかったなぁ。ああ、こんな重要な駅だったなんて…。写真を撮っておけばよかった。来年リベンジするぞ!

 さてさて、このグリープニッツゼー駅に貸し自転車屋さんが隣接しております。そこで自転車を借りました。確か1日で10数ユーロだったかな。ここでサイクリングマップももらえます。昨年借りた自転車と違い、両方のハンドルにブレーキがついていたので日本の自転車に近い感覚で乗れます。ただしスプリングが固くてお尻が痛くなりました。ヒリヒリ。

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 グリープニッツゼーとはグリープニッツ湖のことで、湖に沿って道が走っています。ポツダムと言えば、第二次大戦中にポツダム会談が行われた地。沿道には、参加したトルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連最共産党書記長が滞在した邸宅があるそうです。よっしゃー、これを1つ1つ見て行くぞ!と思ったのですが、あまりハッキリした看板もなく、トルーマンが滞在した邸宅以外は見逃しちゃいました。ま、いいや。これは主目的じゃないから。

 このあたりは東西ドイツの国境があったんですね。いまもなお、壁の一部が残されておりました。また、ここを泳いで渡ろうとして命を落とした人たちのための十字架と献花も。
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 グリープニッツ湖に沿ってさらに進むと、橋が見えます。ぬゎんと冷戦時代、ここで東西のスパイ交換が行われたんですね。まさかこの橋だとは思いませんでした。ビックリです。
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グリーニッケ橋 スパイの交換については → コチラ(ドイツ語ですが)
 
 橋の上でスパイの交換だなんてそれこそ映画の世界の話かと思いきや、実際に行われたんですね。1962年2月10日、ソ連に捕らえられたCIAのスパイ1名と、アメリカに捕らえられたKGBのスパイ1名が、この橋の上で交換されたんだとか。1962年といったら、ベルリンの壁が建てられた翌年、キューバ危機の直前。ホントに冷戦の真っただ中だった時ですね。そしてこのスパイ交換は1回ではありませんでした。2回目は1985年6月11日。CIAのスパイ23名と、東側のスパイ4名が交換されたんだとか。(このドイツ語記事によると、この人数の差から、CIAのスパイが“雑魚(kleine Fische)”だったことが分かる、とあって思わず苦笑…。ドイツ語も日本語も同じ発想なんですね) さらに翌年の1986年2月にも、スパイ交換が行われております。まさに歴史的な場所だったのでした。

 「ナルホド~」と思いながらさらに進んでいくと、湖畔に小さなお屋敷が。Kleines Schloss (小さなお城)という名のレストランでした。古いお屋敷をレストランにしたみたい。小ぢんまりとしていて快適。お食事も安くて美味しかった!
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 例によって食べ物を載せて恐縮ですが、お許しを… ジャガイモのスープ、キノコのキッシュ、フランス風リンゴのケーキです。「プロイセン風ザッハートルテ」なるケーキもあり、聞いてみたら小麦粉の代わりにジャガイモを使っているとのことなのです。試してみたい気もしたけれど、やめちゃいました。さすがジャガイモ王フリードリヒのお膝元。ザッハートルテまでジャガイモが入ってるとは!
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 そんなワケで、ポツダムの午前中はあっという間に過ぎました。緑が多いので気持ちが良いですよね。腹ごしらえをして、午後はバーベルスベルクへ…


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 <おまけ>
 グリープニッツゼー駅の1つ前、ヴァンゼー駅。そうです、1942年1月20日、ユダヤ人問題の「最終的解決」について話し合う悪名高きヴァンゼー会議が開かれた地です。ここはまた、別の機会に行きたいなーと思っております。当時の面影を残す駅舎、そして伝統的な書体。
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by Alichen6 | 2014-09-02 15:19 | ドイツ珍道中 | Comments(4)