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by Alichen6
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カテゴリ:DDR(東ドイツ)( 5 )



 Twitter で教えていただいた記事がとても面白かったので(Iさん、ありがとうございます❤)ご紹介しますね。中で出てくるヴォルフ・ビーアマンという人は、東ドイツの映画史を調べると必ず出てく重要人物です。Liedermacher という肩書が多いように思います。「シンガーソングライター」という訳が当てられているのを見かけますが、ちょっと少し違う気がする… 日本語に訳すのが難しい言葉です。メッセージを込めた詩を作り、それにメロディをつけて弾き語りしていたようです。(☜実はワタシもよく分かっていない…) 東ドイツ当局を批判する内容だったために当局から睨まれていたそうです。西ドイツでコンサートツアーを行っていたときに国籍をはく奪され、そのまま帰国できなくなったとのこと。その処分に対し、東ドイツの映画関係者の多くが抗議したといいます。彼らもまた、当局から睨まれることとなり、西ドイツへ亡命することに…






2月にエアフルトへ行った際、政治犯収容所記念館に行きました。
ビーアマンに関する展示もありました。当時の姿のようです。
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ビーアマンの追放処分に抗議する作家や映画関係者たち。
作家のクリスタ・ヴォルフや先日亡くなった俳優のマンフレート・クルーク、
「パウルとパウラの伝説」で文字通り伝説となった人気女優アンゲリカ・ドムレーゼの名前もあります。
彼らの多くがその後、当局から嫌がらせを受け、西ドイツへ亡命することとなりました…
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by Alichen6 | 2017-04-10 18:32 | DDR(東ドイツ) | Comments(2)

 いまさら感タップリですが、「DDRの思い出」シリーズ、その4でございます。9年前にUPした記事の再掲+αで失礼いたします。それこそ、9年ぶりに読み返しましたが、細かいところは結構忘れてる…。よかった、こうして記録しておいて。個人の記憶なので、部分的には間違っている点があるかもしれません。その場合はご指摘くださいね。こんな思い出話をダラダラ書いちゃってすみません。

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●東ドイツ国内の移動●

<入国後>
いったん東ドイツの中に入ると、とにかく物価が安くてビックリします。特に「日常生活において必要なもの」の価格は非常に低く抑えられていました。ただし、この「日常生活に必要」という定義が我々の定義とは全く異なり、コーヒーやカカオたっぷりのチョコレートはもう「必要品」ではないのですよね。一方、鉄道や市電などは本当に安かったです。

マイセン→ライプチヒが107キロメートルで10マルク10ペニヒ。西ドイツのDM と交換レートが1対1だとしても、当時の為替レートで800円くらい。
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ベルリン→ドレスデンが186キロで17マルク40ペニヒ。同じく、当時の為替レートで1390円くらい。安っ
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ベルリン→グライフスヴァルトが210キロで19マルク80ペニヒ。1580円くらい。激安っ
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アルバムに私が書いた文字が残っています。ベルリン⇔ポツダムがS-Bahnで30ペニヒだったそうです。当時の為替で円換算すると、24円! 今はいくらなんでしょう?
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下のピンクのチケットは、確かドレスデン⇔マイセンでした。1マルク。円換算すると、当時のレートで80円。
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こちらも、アルバムに書きこんだ文字が残っています。東ベルリンのフリードリヒシュトラーセ駅から西ベルリンのツォー駅までは2.70DMだった模様。そーです、東ベルリンで切符を買ったにもかかわらず、西ドイツマルクで払わされたんですね。しか~も!東ベルリン市内の最低料金は10ペニヒ(東ドイツマルク)なのに、西へ戻るには高額のお金を払わされる…。これも外貨獲得の手段だったんですね。
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DDRの地方都市は悲惨な状況でしたが、ベルリンは首都というメンツもあり、それなりに充実しておりました。駅に Imbiss (立ち食いの食堂みたいなもの) もありました。Mitropa という名前のお店。ドイツ版の日本食堂です。アルバムに私が書きこんだ当時の記録によると、上のメニューは : Berlin Schöneweide(シェーネヴァイデ) 駅のMitropa で食べた「Boulette mit Brot」 85ペニヒ。Boulette は地方によってはFrikadelle とか deutsches Beefsteek とも呼ばれますが、いわゆるハンバーグですな。それにポテトサラダ・ニンジンサラダがついていますね。85ペニヒは、当時のレートで68円くらい。味は忘れてしまいましたが、パンがやたら固かったのは今も記憶に残っています。
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by Alichen6 | 2015-12-14 18:35 | DDR(東ドイツ) | Comments(2)

 皆様、今日は寒いですね。あまりにも冷え込むので、先ほどストーブを引っ張り出してきました。連日のように古い日記を持ちだしてしまってすみません。もしかして、皆様もうウンザリ…?

 この下のグラフは確か、まだUPしていなかったと思うのですが、どうでしょう。昨年、漫談のために作ったグラフです。ドイツの統計サイトで数値を拾ってきて、それをグラフにしてみました。一目瞭然、ビックリです。戦後、西ドイツは「経済の奇跡」と呼ばれる奇跡の復興を果たします。一方、東ドイツはソ連が賠償金代わりに身ぐるみはがしていったこともあり、停滞しておりました…。当然、人々は西へ逃げていきます。最初のピークが、1953年の東ベルリン暴動のころ。当局によるノルマ引き上げがきっかけで暴動が起き、ソ連が戦車で介入したのでした。そして1961年にはベルリンの壁が築かれます。それ以降、出国者は激減。グラフを見るとよく分かります。


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by Alichen6 | 2015-11-23 18:25 | DDR(東ドイツ) | Comments(0)

 DDRの思い出を綴った9年前の日記を加筆いたしました。今日は第二弾でございます。9年前に読んでくださった方は、二度目になってしまって、本当にすみません。また、しょっちゅう似たような写真をUPしてきたので、「え~またコレ?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。また、DDRに長くお住まいだった方からすると「この程度ではしゃいじゃって…」と思われるかもしれません。私用のメモも兼ねておりますので、お許しを…


国境での検査

 話は前後しますが、当時の国境での検査は厳しかったです。マイセンへ行ったときはハノーファーから確かライプチヒ行きの列車に乗り、さらにローカル線に乗り換えた記憶があります。西ベルリンから東ベルリンへ行ったときは、S-Bahn (Sバーン、電車です)の Friedrichstraße (フリードリヒ・シュトラーセ)駅で国境審査を受けました。自家用車による国境越えでは、係官が鏡を使って車体の裏までくまなく調べたというのは有名な話。そんな様子を実際に見て覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。それでも私は日本人でしたので比較的スムーズに終わりましたが、ドイツ人は長くかかることもあったようです。

 今でも忘れられないのは、検査待ちの長い行列。化粧合板で出来たような、ちゃちいブースが幾つかあり、そこへ一人ずつ入って審査を受けるのです。Bürger der BRD (西ドイツ国民)、Berlin West (西ベルリン市民)、Bürger der anderen Länder (その他の国民)と分かれていた記憶があります。なお、記憶が定かではないのですが、DDR(東ドイツ)の国民が並ぶ場所もあった記憶が…。60歳を過ぎると、東ドイツの人も西の親戚を尋ねることができましたから、東西を行き来する高齢者は結構いたように思います。なお、ケルン在住の友人は、生まれだけは西ベルリンなんだとか。そのため、DDRに行ったときは、西ベルリン市民用のブースに並ばないといけなかったんだそうです。

 なお国境の様子は、フリードリヒシュトラーセ駅の出口にある博物館で再現されております。前にも載せた画像ですみません。ここに入るとタイムスリップしたみたい。当時の検問所がそのまま残されておりました。チャチさが逆に怖い。
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 これが、その博物館。当時の「出国口」をそのまま生かした造り。
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 で、私は「外国人」の列に並んだわけです。ところが私の順番が来ると、別の外国人が横からスッと入ってきました。そうしたら、隣の列の東ドイツのおばあちゃんたちの怒ること、怒ること。「アンタ、次はこのアジアのお嬢ちゃんの番よ!!!横入りしちゃダメじゃない、並びなさい!ったくもー、親の顔が見てみたいよ!!!」とまで言ったかどうかは分かりませんが、とにかく大勢のご老人がその人を叱り付けたのにはビックリしました。
ドイツ人は順番を守ることに厳しいとはよく言われますが、東ドイツ人も同じでした。さらには、当時の東ドイツは慢性的物不足で行列が当たり前でしたから、順番を守って辛抱強く待つことは常に要求されたことだったのでしょう。そういえばマイセンの友人は、「行列があれば並ぶ」と言っていました。「何が売られているのか分からないけど、とりあえず並ぶ。とにかく並ぶ。ひたすら並ぶ」って。

 フリードリヒシュトラーセ駅のあちこちに掲げてあった標識が一か所で展示されていました。「国境検査」「出国」「入国」…といった言葉が書かれているのですが、フォントが古くて独特の雰囲気。
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 そうして審査を終えて出てくると、そこはもう東ドイツ。駅舎は すすけてボロボロ。党(SED、ドイツ社会主義統一党)のプロパガンダは貼ってあっても企業の広告はナシ。ホーネッカー議長の写真は掲げてあっても女優さんや俳優さんがほほ笑むようなポスターはナシ。西の広告は視覚に訴えるために様々な色を駆使し、ロゴも工夫してあります。ところが東側の文字ときたら、戦争中のナチほどじゃないけど、いかめしい字体でして(さすがにヒゲ文字ではなかったけど)、それだけで威圧感が…。

 こうした光景を目にするたびに、「ああ、東ドイツにやってきたんだ・・・」と実感するのでありました。友人たちへのお土産は、ハノーファーで買い込んだ板チョコ、本物のコーヒー、ストッキング。かばんにたくさん詰めて、ローカル線で目的地へ…。(つづく)

 
by Alichen6 | 2015-11-23 18:22 | DDR(東ドイツ) | Comments(2)

 皆様、土曜日の夜をいかがお過ごしでしょうか。今日の午後、「ぴんぽーん」とインターホンが鳴りました。出てみたら、小さくてカワイイ小学生の女の子が2人。「とりっくおあとりーと」だって。魔女の帽子もかぶっています。「ちょ、ちょ、ちょっと待っててね!!」と言いながら、たまたま家にあったお菓子を袋に入れ、持たせました…。来ると分かっていたら、もちっとカワイイお菓子を用意しておいたんだけど。「どこの小学校?」と聞いたら、離れた学区の小学校でした。こんな遠いところまで来るんだ(苦笑)。

 …と、話がいきなりそれてすみません。このところ、お友達とDDRの画像を見せ合うことがありました。懐かしい! ココログのブログを始めたばかりのころ、DDRの旅日記を載せておりましたが、それももう9年前の話。もしかして、最近このエキサイトブログに来てくださるようになった方は御覧になっていないかなーと思い、少し書きなおして載せることにしちゃいました。二度目の方はすみません。読み流してくださいませ。もっとお詳しい方も大勢いらっしゃると思いますし、実際に東ドイツに住んでおられた方もいると思います。私のささやかな経験を書いたところで、「それで?」となっちゃうかもしれませんが、私用のメモでもありますのでお許しを… 2006年の春に書いていた日記でございます。



**********DDR(東ドイツ)の思い出 (その1)****************



マイセンの友人宅へ(1986年7月)

 私がドイツにいた頃は、まだ東西を隔てる壁が存在した時代でした。冷戦の末期の頃のことは今もよく覚えています。
 ドイツへ行って最初の休暇。東ドイツのマイセンに住むペンフレンドの家へ遊びに行くことになりました。当時、西ベルリンから東ベルリンへ日帰りで行くのは比較的簡単だったのですが、公共のホテルではなく個人宅に滞在するには、あらかじめ申請しておく必要がありました。Das Reisebüro der DDR(ドイツ民主共和国旅行社)という国の機関に申請すると、数日たってビザ取得の許可証が送られてきます。それを国境で提示するとビザを発行してもらえるシステムだったと思います。ちなみに、審査料として30ドル請求されました。さらには、滞在1日につき最低25ドイツマルクのMindestumtausch (両替)が義務づけられていました。東ドイツの外貨獲得のための政策です。7日間の予定でしたので、25ドイツマルク × 7 = 175ドイツマルクを東ドイツのマルクに替えました。(余談ですが、当時の東ドイツマルク札は紙の質が悪く、ボロボロ。硬貨はアルミ製。1ペニヒ玉ならともかく、すべての金種がアルミ製というのは、何となく心細く見えました。こども銀行みたいで。)

 これが申請書です。1989年、最後にDDRに行ったときのもの。コピーして取っておいたのでした。現住所や勤め先、パスポート番号、訪問する友人の情報を記入して郵送します。最初にブログに載せた際に汚く消しちゃったので、見苦しくてスミマセン。
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 申請時に手数料30ドルを海外送金した際の控えです(我ながら、よく取っておいたなぁと感心。将来ブログを書くつもりだったのか?!)。Deutsche Außenhandelsbank (ドイツ通商銀行、東ドイツの銀行)にある、東ドイツ旅行社の口座に支払っていますね。これも1989年に行ったときのものです。
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 これ(↓)は送られてきた許可証についていた添え状。国境でビザを取得するための文書を1通、同封した云々ということが書かれております。私ったら、肝心の許可証のコピーを取っていなかったんですねーーーあ~惜しいことをした。アルバムにべったり貼りついてしまい、スキャンするためにはがそうとしたら破れた(苦笑)。仕方がないので、写真に収めた次第。
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 これは国境付近で両替したときに領収書。1987年に行ったときのものですね。この時は6日間の滞在だったみたい。25DMx6日間=150DM。
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 国境を通過する際、一人ずつ検査を受けます。シャレが全く通じそうにもない無愛想な係官がパスポートをチェックするのですが、あの何とも言えないゾッとするような雰囲気、当時を知る方ならきっと今でも覚えていらっしゃることと思います。ソ連ほどじゃないにしても、東ドイツも「こわい」というイメージがありました。

 国境でビザをもらいます。もったいぶった割に簡単なビザ。
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 国境を越えると景色が一変。西ドイツでは窓辺に花があふれ、家々はきちんと手入れされ、それはそれはのどかな景色が広がっているのです。ところが東側では花は一つもなく、屋根はボロボロ、壁は薄汚れていて、空の色もなんとなくどんより(石炭の質が悪く、環境対策も遅れていて公害がひどかったらしい)。
 途中の駅で友人が出迎えてくれました。彼女は満面に笑みを浮かべて歓迎してくれましたが、駅舎はボロボロ、乗り換えた列車もガタガタ(古いため、きしみがひどい)で埃っぽく、車窓も西独に比べて何となく寂しげ、煙突からは黒い煙がもくもく…。行ったその日に、西側へ逃げ帰りたくなりました。30年経った今もあの光景は脳裏に焼きついています。
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 何度も載せちゃってすみません。マイセンの町中で見かけたプロパガンダの看板。「社会主義が強固になれば、平和も確実になる」。プロパガンダを撮るのはNGだって当時まことしやかに囁かれていたので、撮るときはドキドキしました。結局、私の手元に残っているプロパガンダの写真はこれ1枚。
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 ベルリンなどの大都市は、体面もあったのでそれなりに整えられていましたが、地方都市はヒサンでした。これはマイセンの町中にあったお店。ショーウィンドウは何もない状態…。
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 友人宅に着いたら、地元警察に到着を知らせます。ビザ申請の際に記入した情報が、ちゃーーんと届いているんですね。何でも番号で管理する社会。DDR版マイナンバーだったのか?!? (つづく)


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  …というワケで、実に個人的な内容をダラダラ書いちゃってすみません。もう、その話は何度も聞いたよーと思われる方もいらっしゃると思います。どうぞスル~しちゃってくださいね。
by Alichen6 | 2015-11-23 18:19 | DDR(東ドイツ) | Comments(10)