Ernst Udet (エルンスト・ウーデット)
2008年 10月 27日
・・・で、思い出したのが山岳映画のアーノルト・ファンク博士が巨匠ゲオルク・ヴィルヘルム・パプストと共同で監督したサイレント映画「死の銀嶺(Die weisse Hölle vom Piz Palü, 1929)。ここで初めてエルンスト・ウーデットを見たのです。もちろん、飛行機を自在に操るシーンで。ちょっと話はそれますが、この映画はなかなか面白いです。白黒のサイレントですが、機材を山に持ち込み、CGなしで(当たり前か)岩と氷の世界を撮影したという話ですからスゴイ。この作品ではアルプスの山々の美しさ、神々しさ、恐ろしさが見事に描かれています。ちなみに主演女優は、ナチ時代に「意思の勝利」「オリンピア」などを撮影した女性監督、レーニ・リーフェンシュタール。最初は女優だったんですね。山で遭難したのに救出されたときは凍傷一つ起こしておらず、お化粧バッチリゆで卵のような肌・・・と、突っ込みを入れるのは無粋なのでやめておきます(苦笑)
話は元に戻りますが、このウーデットさん、曲芸飛行などで有名だったんだそうです。安易で恐縮ですが、ウィキから引用させていただきますね。
以下、ウィキペディアより引用:『エルンスト・ウーデット(Ernst Udet、1896年4月26日-1941年11月17日)は第一次世界大戦において敵機を62機撃墜したドイツのエース・パイロット。最終階級は第二次世界大戦におけるドイツ空軍上級大将。
フライングサーカスと呼ばれたマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの第11戦闘機中隊 (Jagdstaffel 11) で名を馳せ、1917年6月6日にはフランスのエース・パイロットであるジョルジュ・ギンヌメールと機と1対1の戦いを繰り広げたが、ウーデット機の機関銃が壊れ、更にギンヌメールが手を引いたため(手を引いたのはギンヌメール機にも故障があったのではないかとする説がある)、決着は付かなかった。
第一次大戦後は曲芸飛行士として飛び続け、ドイツ再軍備後、1936年に航空省技術開発部局長 (Technisches Amt des RLM)、1939年、航空機生産を司る航空機総監 (Generalluftzeugmeister) に任命された。しかし、第二次世界大戦でヘルマン・ゲーリングに軍事作戦失敗の責任追及をされ、更に航空戦遂行を巡るアドルフ・ヒトラーの決定と折り合いが付けられないため、1941年11月17日に拳銃自殺した(戦時中は事故死と公表された)』(以上、引用終わり)
・・・なんだそうです。フィルモグラフィーを見ますと、複数の映画にパイロットとして出演していたみたいですね。そういえば引用の中にあったリヒトホーフェンはつい最近、映画化されて話題となった「レッドバロン」ですよね。ドイツ語のサイトを読んでみると「最後は
Sündenbock(スケープゴート)として責任を負わされ、自殺に追い込まれた」と出ています。パイロットとしては華やかな経歴の持ち主ですが、最期が気の毒です・・・。