S-Bahn グルーネヴァルト駅の17番線にて
2015年 02月 18日
そのホームは、通常の運行に使われているホームから少し離れたところにありました。17番線です。
1941年から1945年まで多くのユダヤ人が死の収容所へと運ばれていきました。
ホームは2つあり、1つは塗りこめられて封鎖されておりました。
この日は雪が降った翌日だったこともあり、とにかく寒かった…!
17番線ホームに立ってみました。こんな感じです。移送されていく人々の声なき声が聞こえてくるようで、何とも言えない悲しい気持ちになりました…。
ホームの端に文字が刻まれております。その内容は、列車が出発した日と運ばれたユダヤ人の数、そして行き先。
「1942年10月26日 ユダヤ人800名、ベルリン - リガ」
「1942年10月28日 ユダヤ人100名、ベルリン - テレジエンシュタット」
「1942年1月12日 ユダヤ人1190名 ベルリン - アウシュヴィッツ」
…こういった文字がぎっしり刻まれておりました。このプレートに書かれたデータは、ナチが残した資料を元にしているのでしょう。冷酷かつシステマティックに次々と生身の人間を絶滅収容所や強制収容所へ送りこんでいったナチ。全く悪びれる様子もなく淡々と証言する法廷のアドルフ・アイヒマンを思い出しました。
毎度Wikiからの引用で恐縮ですが(コチラ)説明によると、1941年から終戦まで、ベルリンからは50,000人のユダヤ人が移送されたんだそうです。グルーネヴァルト駅のほかに、貨物駅のモアビート、そしてアンハルター駅も移送に使われたそうです。グルーネヴァルト駅から最初の列車が出たのは1941年10月18日。1.013名のユダヤ人が運ばれたそうです。これを皮切りに、次々と列車はグルーネヴァルト駅を出ていきました。最初はリガやワルシャワなどのゲットーが移送先だったそうですが、途中からもっぱらアウシュヴィッツやテレジエンシュタットなどの収容所が移送先となったとのこと。
これについては、中村真人さんがブログ「ベルリン中央駅」で大変詳しく書いておられます。ぜひお読みくださいね ⇒ コチラ。
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KaDeWe の最寄駅、Wittenbergplatz駅の前に立っている看板。「私たちが決して忘れてはならない場所」として、強制収容所や絶滅収容所の名前が挙げられています。アウシュヴィッツやザクセンハウゼン、テレジエンシュタット、ブーヘンヴァルトなど、多くのユダヤ人が虐殺されていった場所です…。過去にきちんと向き合おうとするとドイツ人の姿勢を、我が国の首相はどうとらえるのだろうか。是非、こういったプレートを見てもらいたい。