キネマ旬報 1921年11月21日号のコラム (3年前のブログ記事より)
2017年 03月 30日
『獨逸の映畫だといふと一も二もなく高級文藝映畫といふ銘を打つ。天下の有象無象がそれ行けと其の封切館に殺到する――まア夫れ程でないまでも獨逸の映畫は深刻だよ位の批評を與へることには大抵のフアンが一致してゐるらしい。で獨逸の文藝映畫は近代的の苦悩を著しくゑぐり出してみせてゐる點で米國ものとは趣を異にしてゐる。獨逸の映畫の方がゑぐり方が深い、のみならず切實な人生に觸れてゐる。つらい苦の世界をそのまゝスクリーン上に再現する。映畫藝術の最も得意とすべき寫實的壇場に於てその驥足を十分伸べているのが獨逸の近代文藝映畫である。最もこれは最近ポツポツ封切された若しくはされるべき獨逸の映畫に就て特にアテはまるやうにデツチあげた概論にすぎない、獨逸だつて映畫はやつぱり商賣である。だからいづれも様の御意に召すやうにいろいろな映畫がある。凸坊新畫帖式の線畫フィルムもある。センセーショナルな猛獸映畫がある。ロココ式のオペラ趣味を映畫化したものがある。千態萬状といふかね。しかしまア我々が獨逸映畫から期待し得る興味は近代的苦悩の深刻な描破といふことになりはしまいか。人によつて賢しで、獨逸映畫は獨逸映畫、亜米利加映畫は亜米利加映畫、仏蘭西映畫は仏蘭西映畫と各々その分を守らせる方がいゝ。てんでんに持味といつたやうなものがあるんだから。』
旧字体が結構あって打つのがタイヘンでした^^; ちょっと長くなっちゃうけれど、今の仮名遣いに直したものを下に載せちゃいますね。
『ドイツの映画だというと一も二もなく高級文芸映画という銘を打つ。天下の有象無象がそれ行けとその封切館に殺到する――まあそれほどでないまでも、ドイツの映画は深刻だよくらいの批評を与えることには大抵のファンが一致しているらしい。でドイツの文芸映画は近代的の苦悩を著しくえぐり出してみせている点で米国ものとは趣を異にしている。ドイツの映画のほうがえぐり方が深い、のみならず切実な人生に触れている。つらい苦の世界をそのままスクリーン上に再現する。映画芸術の最も得意とすべき写実的壇場においてその驥足(きそく)を十分伸べているのがドイツの近代文芸映画である。もっともこれは最近ポツポツ封切りされた、もしくはされるべきドイツの映画について特に当てはまるようにでっちあげた概論にすぎない、ドイツだって映画はやっぱり商売である。だからいずれも様の御意に召すようにいろいろな映画がある。凸坊新画帳式の線画フィルムもある。センセーショナルな猛獣映画がある。ロココ式のオペラ趣味を映画化したものがある。千態萬状というかね。しかしまあ、我々がドイツ映画から期待しうる興味は近代的苦悩の深刻な描破ということになりはしまいか。人は道によって賢しで、ドイツ映画はドイツ映画、アメリカ映画はアメリカ映画、フランス映画はフランス映画とおのおのその分を守らせる方がいい。てんでんに持ち味といったようなものがあるんだから。』
ね、面白いでしょ?(…と押しつけがましくてスミマセン) ドイツ映画は深刻だ、高級文芸映画だ、とみんな思っているけれど、それは一部の作品だけを見て、さもそれがドイツ映画だと結論づけようとしているだけだ、映画はビジネスなのだからドイツにも様々な映画があるんだ。猛獣映画(←見てみたい)や、凸坊新画帳(←大昔、「でこぼうしんがちょう」というタイトルの和製アニメがあったんだそうです。スゲー)式のアニメだってある。ただし、我々はやっぱりドイツ映画にはシリアスな作品を期待してしまう。どの国でもそれぞれ持ち味があるのだから、それぞれの得意分野を鑑賞するのがいい」ってことなんでしょうね。うーん、今にも通じる内容だー!