ロマーニッシェス・カフェ (その2)
2010年 01月 09日
『ベルリンのカフェ 黄金の1920年代』 (原題:Damals im Romanischen Cafe)
ユルゲン・シェベラ著、和泉雅人。矢野久訳、大修館書店
とにかくスゴかったんだそうです、このカフェ。何がスゴイって、集まる面々がです。締め付けの厳しかったヴィルヘルム2世時代の反動からか、ワイマール時代は華やかな才能がベルリンを中心に一気に開花。そうした文化の担い手たちが連日のようにロマーニッシェス・カフェに通い、コーヒーをすすりながら熱く語り、激しく議論し、互いの才能に触発され、切磋琢磨し・・・ だから私は、このロマーニッシェス・カフェって垢ぬけて、モダンで、時代の先端を行くおしゃれなお店だと勝手に想像しておりました。
・・・が! 実際のロマーニッシェス・カフェというのは、どちらかというと場末感漂う退廃的な酒場っぽい場所だったみたいですね。いえ、むしろそういう所だったからこそ、多くの天才たちを惹きつけたのかもしれません。オープンは1916年。カイザーヴィルヘルム記念教会(ゲデヒトニスキルヒェ)の向かいにあったそのカフェの名は、すぐ近くにあったネオ・ロマネスク様式の大きな商館にちなんで名づけられたんだそうです。同書から引用いたします:
『店そのものは、後期ヴィルヘルム時代のロマネスク趣味からとられたその名前と同じように、生彩を欠き、あたり一面冷やかな雰囲気を漂わせていた。(中略)回転ドアのはす向かいにはカウンターがあった。建築様式が不愉快このうえないもので、しかも料理がまずいという点では、プロイセンのあらゆる待合室となんら変わるところはなかった。』
『ロマーニッシェス・カフェはたいへん汚かった。第一に、窓ガラスは大きかったものの、精神の発揮される場所にふさわしいようにと曇りガラスがはめられていた。第二に、絶えずタバコの吸い殻を床に棄てる客のマナーの悪さのため、第三には、絶え間なく出入りする数多くの客たちのせいで、このカフェは汚くなっているのだ。客たちは、職探しのため、音楽をするため、映画を撮るため、絵を描くため、芝居を打つため、文章を書くため、監督をするため、彫刻をするため、さらに車、絵画、地所、敷地、絨毯、骨董品を売るためにベルリンへやってくる。』(以上、引用終わり)
恥ずかしい話ですが、ワタシって文学や演劇に疎いので(恥)、有名どころと言われる人たちの名前を見ても、ピンとこなかったりするのです。恥ずかしや~ 恥ずかしや~ でも、たぶんスゴいに違いない。うん、きっとそうだ。栄華(?)を極めたロマーニッシェス・カフェですが、この時代を語るのに避けて通れないのがナチの影。33年に政権を掌握する前後から、店にはSA(突撃隊)の制服を着た輩が大きな顔をして出入りし、目を光らせ、特にユダヤ系の客たちはびくびくするようになったんだとか。それまで大きな声で活発に議論していたのに、いつのまにか「ひそひそ声」になり、やがて多くの者が亡命し、そのひそひそ声さえ聞こえなくなっていきます。ミュージカル「キャバレー」の元となった「ベルリン物語」を書いたとされるイギリスの若手作家クリストファー・イシャーウッドも1933年当時は英語教師としてベルリンに住んでいたんだそうです。彼が記したカフェの様子が同書に載っていました。(以下、再び上述の本から引用いたします)
『私は毎晩、記念教会堂(ゲデヒトニスキルヒェ)のそばの大きな、半分くらいしか席のうまっていない芸術家カフェに座っている。そこでは、ユダヤ人や左翼系のインテリたちが大理石のテーブルの上で額を集めては、低い声で不安げに話しあっている。多くの者たちは、自分たちの逮捕が目前に迫っていることをはっきりと知っていた。たとえ今日でなくても、明日か来週には逮捕されるのだ。ほとんど毎晩のように突撃隊(SA)がカフェにやってきていた。』
『今日の午前中、ビューロウ街をぶらぶら歩いていると、ちょうどナチの連中が無名の平和主義的作家の本を積み込んでいた。連中はトラックをもってきており、そのトラックにこの作家の本を積み込んでいた。運転手が群衆に向かって、馬鹿にした口調で本のタイトルを読み上げた。『戦争は繰り返すまじ』と彼は大声で告げ、さも胸糞が悪そうに本の表紙をつかんで、それを高く掲げた。見るも汚らわしい爬虫類ででもあるかのように』(以上、『ベルリンのカフェ 黄金の1920年代』より引用いたしました)
藤原紀香さん主演のミュージカル「キャバレー」が見たくなってきました・・・。映像ほにゃくつながりのお友達、すーさんが観に行かれたそうです。ブログで感想を書いていらっしゃいます → コチラ。